わからないことへの憧れというものが、小さいころからずっとあるなぁと、最近考えていた。
自分が読書が好きであると自覚したのは、小学生中学年ごろ読んだ星新一の「ボッコちゃん」あたりからだったように思う。それ以前もなんとなく、国語の教科書に載せられた小説に興味を持っていたし(授業で取り上げられない作品も目を通していた)、姉の持っていたコミックに「忍ペンまんまる」「魔法陣グルグル」など愛読しているものがあったので、物語に興味があるということは自覚し始めていたが、教室文庫として置かれていたこの本や江戸川乱歩の少年探偵団シリーズなどを読んでから、なるほど、自分は物語であることに加えて、フィクションとして現実とすこし離れた題材が取り上げられたものが好きなのだと感じ取っていた。気がする。現実に近すぎる例として、ズッコケ三人組や学校が舞台の作品はそうだと感じて、避けていた記憶もある。
こうなると、当然クレヨン王国シリーズからハリーポッターへ行くし、ファイナルファンタジーなどのファンタジー系RPGゲーム、すこし背伸びして筒井康隆や宮部みゆきのSF入門作品などに辿り着くのも早かった。小学校の劇のシナリオをクラスから募集するという話が出た時、あまりに演劇で実現可能性のないファンタジーめいた内容(登場人物の身長が伸び縮みしたり、身長の何倍もある大きなキノコの家が登場したり…)の文章を応募して先生を困らせたりもしていた記憶がある。そこからSFやファンタジーの諸作を海外作品含めて読むようになったのも自然で、中学校ではフィリップ・K・ディック「ユービック」あたりのイマジネーションあふれる作品に魅力を感じていた。
ただ、このあたりの記憶で一番大きいと思っているのは、グレッグ・イーガン「ディアスポラ」を読んだときの衝撃だ。なにより、読む単語の大抵がわからない。難しい漢字ならば辞書を引けばわかることもあるが、この場合解説を読んでもわからないのだ。しかも造語というわけでもないらしいから、よりタチが悪い。もし造語ならばわからないまま読み進めても、いつか解説されるか、またはわからなくても物語が理解できるように作られているはずだからだ。さらに、この本は文庫でも500ページあるときた。
ふつうならばこの段階で、この本は自分には早いと諦めるところだが、自分はこのときむしろ、このわからなさが持つ「人を寄せ付けない力」が、どうしようもなく魅力的に感じたのだった。この時の思考回路は、厨二病とよばれるような、ミステリアスなものがカッコいいという思考回路もあったと思うが、ミステリアスであるがそれは自分の至らなさに理由があるという点にも、超越的なものを感じていたようにも思う。この気持ちはそれ以降の自分の体験にも続いていて、たとえばプログラミングに興味を持つことになったのも「わからなさ」と「それでも一貫性のあるロジックを(自分とコンピューターで)共有できる」に憧れたという点だったように思う。
ここまで考えて、じゃあ今の自分に、この時感じていた「一貫性を信じられる、わからなさ」はあるだろうか、それを起点とした行動欲はあるだろうかと思い直したのが今日だった、というのが長い前振りであり、この日記のメインで書き残しておきたかったものである。
現代においての一番の候補は、やはりAIやLLMの技術だろう。GPTが登場した直後の、まるで赤子の産声のようなか細い、しかし不気味さにも似た違和感(なぜ言語をベースにした学習モデルを作るだけで、思考とも取れる結果が出るのだろうか)は、わからなさの一端だったと思う。今となってはただのマネーゲームの1ツールのようにもなってしまってしまったが、マルチモーダル方面での躍進は凄まじいし、エッジでの実行環境が整っていく様子も「技術革新」という言葉が相応しいものだと思う。だが、なにかSFで感じたわからなさとは違い、もう地に足がついてしまっているのが「わからない」とは異なるものになってしまったと感じる。
あるいは、陰謀論はある種のわからなさと取れるかもしれない。しかし、大半の陰謀論はポピュリズムで「わかる」ことにフォーカスしてしまい、わからないことに魅力を感じるものは駆逐されてしまった。
そう考えると、改めてSFというものの力を信じてみてもいいかもしれない。もう一度、憧れを持ってみようと思う。